あれから一年。追悼 上杉宮司

あれから一年。
1年祭も過ぎ、追悼の祈りを込めてあらためてここに記す。

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追悼 さらば上杉宮司

平成5年の御大祭「お下り」の騎乗にて

『学校法人皇學館常任顧問、鎮西大社諏訪神社名誉宮司上杉千郷(うえすぎちさと)氏は、かねて病気療養中のところ6月30日(木)午前4時50分に享年87歳で逝去されました』

昨日入ってきた訃報である。

昨年末からお具合が芳しくないとは漏れ聞いていたものの驚いた。
初めてお会いして以来、多くを学ばせて頂いた宮司さまであり、私たち夫婦のお仲人もいただいただけに、訃報に接した瞬間、時間が止まり直接お世話になった12年間の記憶が・・・閃光のように駆け抜けた。

私にとって宮司さまとの出会いは、昭和57年の長崎、鎮西大社諏訪神社の宮司に赴任されたことから始まる。

まだ、20代そこそこの小生意気な駆け出し新米神主であった私が、今日こうして代々続いてきた新開大神宮の宮司をご奉仕させていただけているのも、上杉宮司さまのおかげであると思っている。
感謝に堪えない歳月であった。

帰郷後も、お電話やお便りを頂戴するたび、そのお声やご活躍ぶりに、当時と変わらぬバイタリティーを感じ、鋭気をいただいてきたことも事実であり、それももう叶わなくなってしまったのかと思うと・・・

当時「神主?」「神社?」「神道?」はたまた「社会?」などわからないことだらけで、全てが暗中模索、五里霧中であった時期に、初めてあった宮司さまは、「疾風」のようなご存在で、新卒赴任以来一年が過ぎ、当時のお社を支配していた「ぬるま湯」のような「よどんだ空気」のような、それに何の疑いも持たず、当たり前と自分自身の感覚までもが麻痺しつつあった頃だけに、その疾風には、目の前で爆竹が破裂したかのような強烈なインパクトがあった。

社内は大きく変化した。
これは、自分も含め当時の職員にとってみれば・・・そう、大げさに云えば「価値観の大転換」であったために、頭だけではなく身体もまた、その「風速」について行けず、人によってはアレルギーに近い、拒絶反応も起こっていた。
この極端な変革「風神」のご加護があって、その後のお社が目まぐるしく発展したことは、今日の諏訪神社をご覧いただければ一目瞭然であり、その方針に誤りが無かったことを示している。
しかし、評価、賛同があれば当然、批判、反発もある。

今風にいえば改革推進派と守旧派に例えられるであろうが、あらゆる批判をはね除けて猪突猛進、イノシシのごとき前進であったにも関わらず、それが先鋭化して対立にまで発展することがなかったのは、終始一貫し、毅然とした姿勢と信念にあり、それを支えるバックボーンは鋭い洞察力や創造力、辞書のごとき豊富な知識とというスキルと、何より「人」としての厚みを併せ持っておられたからであることは云うまでもない。
こういう姿勢と改革のスピードには内外から「ヤリ杉、うえ杉」とも揶揄されたが、全ては取るに足らないささやかな抵抗、遠吠えに過ぎなかった。

とにかく、その勢いたるや強烈であった!

しかし、内部から見ていて感じたことは、賛同と反発の狭間で翻弄されたのが職員であったが、ふり返ってみると、それは個々人のスキル不足から生じるところでもあったし、もしもその当時、宮司さまの洞察力や創造力を少しでも理解できたならば、もっと大きな進化発展を得ることができたかもしれないと思うと、残念でもある。
この時の経験が今の自分にとって大きな糧となっており、あえて、気持ちの一部を吐露するならば「ポジティブで行こう!」という今の行動の基となっている。

その後も折に触れて多くを学ばさせていただいたが、宮司さまのあくなき探求心、向上心には目を見張るものがあった。
日ごろの大手四大新聞に加えて長崎新聞、神社新報や業界関連の新聞など情報収集は勿論、政治、経済、社会、生活などに加えて世界の宗教や歴史など、浅学非才の自分など逆立ちしても及ばない読書量と学問の幅。加えてご趣味であった狛犬の研究。多方面から依頼される揮毫や膨大な原稿執筆などなど、多忙が日常であったにも関わらず、確実にそれらをこなされていた。

しかし、何より大切になされていたのが「神明奉仕」である。
ご赴任当時から不在がちな宮司さまには、内外から疑問や批判もおこり、自分自身が当時抱いていた「あるべき神主像」とは乖離した印象を持ったものであるが、ご在崎中は定時朝礼から朝拝をご一緒につとめられ、日供祭(にっくさい:神さまの朝食)はともかく、月次祭など大小に関わらず祭祀をご奉仕されていた。

「先ず神事」が口癖であった宮司さまのお気持ちを証明するような出来事があった。
職員の一人が、一身上の都合で退職することになった時、その本人に送られた言葉に、その一端を垣間見ることができた。
退職する本人は社家(神社の家柄)出身ではない。
つまり、もともとの家業を継ぐために退職を決意したものの、神職を離れることに自身少なからず抵抗と躊躇があったようだ。
その本人に贈られた言葉が
「装束を身に纏い神前に額ずくばかりが神主では無かろう。手に笏を持たずとも、心に笏をもって日々を生きることこそ神道(かんながらのみち)に通じるのではないのか!?」と、激励されたのである。

この「心に笏を持て」は、自分にとっても生涯忘れることのできない座右の銘である。
私自身、装束がなければどうもシックリこないことも事実ではあるが、「無いとご奉仕できないというのは、神主としては敗北にひとしい」と仰られていたのだと思っている。

そして、歳月はながれ、私が退職を決意した平成4年。
言葉に出して仰ることはなかったが、おそらく察しておられた。

当初翌年3月予定であったが、種々の事情から9月末に退職した。

その時いただいた言葉には「神さまが宿られていた」
退職を決意したものの、実際やめるということは始めることよりエネルギーを消耗するものだと後になって気づいたが、その流れの中で迷いが意志を揺さぶった時のことである。
宮司さまとの雑談のさなか、私の迷いをお察しいただいたように、

「我々は神主だよ。誰よりも神さまのお近くにいるじゃないか、それさえ忘れなければ何があっても大丈夫だよ。」と・・・

迷いが氷解した。
気持ちが晴れ晴れとした。
まさに、言霊による「おはらい」であった。
「心に笏を持て」という言葉の意味を体験、実感した思いがした。

 

そして、退職までの数ヶ月間、折に触れてお話しする機会を得て、抱えきれない言葉を胸に熊本に赴任することができた。
その後も、宮司さまや諏訪神社からの出版物等のご恵贈を賜りながら迎えた平成20年。
すでに鎮西大社諏訪神社の名誉宮司を拝命され、他方、学校法人皇學館の理事長をお勤めになられており、お元気そうなお便りやお電話を頂戴していたその年の8月、大学の理事長もお引きになり、その記念にと「飛騨神主の笏紙」を上梓されご恵贈いただいた。

飛騨神主の笏紙


そこには生い立ちから退任までの生涯が克明に記されており、ありがたいことに神道国際友好会主催の海外宗教視察団の随行としてご一緒させていただいた「ヨーロッパ北欧の旅」の記念写真には不肖自分も写っている。

神主学徒出陣 残懐録

今年(平成22年)4月に届いた遺作となってしまった「神主学徒出陣 残懐録」に添えられたお手紙には、体調が思わしくなく、人生も残り僅かの言葉が記されており、気に病んでいた。

それが!

すべてが終焉した。幕は完全に降りてしまった。

あまりにも寂しすぎる平成22年6月30日(水)を迎えた。
この日、各地のお社では半年を締めくくる「夏越の大祓神事」がおこなわれ、すべてがリセットされ、今日7月1日(木)から、何もかもが新しい一日が始まった。

ふと、上杉宮司さまらしい幕の引き方だなぁ、と思えた。

宮司さま
どうか、安らかにお休みください
そして、ご面倒でしょうがこれからも私たちをお導きください。

訃報に接し、驚愕いたしております。
衷心より哀悼の意を捧げ、
御霊安らかに鎮まりませとお祈り申し上げます。

上杉宮司さま。
郷土とともに我が国をお守り下さい。

 

平成22年7月1日(木)
新開大神宮 宮司 太田黒義國
鎮西大社諏訪神社在任(昭和56年4月〜平成5年9月)

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この記事は、昨年7月1日のものに修正を加えたものです。
本年2月にサーバー上のデータすべてを消失するトラブルで、失っていたものですが、プリントした記事がありましたので、1年祭に当たり追悼の意を込め、あらためて投稿したものです。

 

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