文安元年より続く新開大神宮の歴史
創建
文安元年(1444年)初代宮司にご託宣(神さまのご啓示)が下り
文安2年(1445年)に鎮座 お社に神様が宿られました
創建に至る経緯~不思議な伝説
初代宮司はとても熱心な伊勢神宮の崇敬者で もともと一年に一度は必ず伊勢神宮を参拝されていたと言われています
それが次第に「月に一度」 そしてご神託を頂かれる頃には「毎日」参拝されるようになっていたそうです
現代では 熊本と伊勢神宮を毎日往復することは可能でしょうが 話は室町時代の事 便利な交通手段はなかった頃です
では どうやって毎日参拝していたのでしょう
地元の人の話によると なんと「空を飛んで」熊本・伊勢神宮を往復されていたということです
その姿を見た人々はその姿から「飛行孫七郎」とか「飛行神」と呼んでいたらしいです
言い換えれば 初代宮司の猛烈な信仰心により招き寄せられたお社であるとも言えます
宮司は御鎮座後も日課としていた「禊ぎ」を続け神明奉仕をつとめられておりましたが 97歳のある日の事・・
という話しが言い伝えとして残っています
それが次第に「月に一度」 そしてご神託を頂かれる頃には「毎日」参拝されるようになっていたそうです
現代では 熊本と伊勢神宮を毎日往復することは可能でしょうが 話は室町時代の事 便利な交通手段はなかった頃です
では どうやって毎日参拝していたのでしょう
地元の人の話によると なんと「空を飛んで」熊本・伊勢神宮を往復されていたということです
その姿を見た人々はその姿から「飛行孫七郎」とか「飛行神」と呼んでいたらしいです
言い換えれば 初代宮司の猛烈な信仰心により招き寄せられたお社であるとも言えます
宮司は御鎮座後も日課としていた「禊ぎ」を続け神明奉仕をつとめられておりましたが 97歳のある日の事・・
「私はこれから高天の原、神さまの世界へと詣でることになったので、
これからは二つの世界を往来し、末永く子孫を守るであろう・・・」
という話しが言い伝えとして残っています
初代宮司 太田黒孫七郎
勤王一族 菊池氏六代 隆直公の末裔
元の名を藤原清澄と言い当宮所在地「内田」の地名の由来は初代宮司の出身地と深い関わりを持つと伝えられています
元の名を藤原清澄と言い当宮所在地「内田」の地名の由来は初代宮司の出身地と深い関わりを持つと伝えられています
歴史と変遷
希有な「創建の経緯」をもつお社であった為 当初より領主菊池持朝公の熱心な崇敬を頂き
さらにはこの出来事は朝廷にも知られるところとなり 有難い御尊崇を賜ることとなりました
しかし安土桃山時代 佐々成正によって熊本中の神社仏閣が焼失させられる出来事がありましたが
当宮も同じく焼失させられることとなります
その後 加藤清正公が国主として赴かれると 熊本城築城にあわせ神社仏閣の再建にご尽力を賜り
ここ「新開大神宮」も再建することができたと言われています
またその後 加藤清正公をはじめ 歴代藩主の直参を頂くこととなりましたが
その方々が当宮にお参りに来られる為に通った道
いわゆる熊本城から新開大神宮までのその参道は「伊勢道」と呼ばれ 現在でも近見など一部にその名前が点在しています
幕末・明治維新を迎える頃には日本の碩学であり肥後国学の祖と称される「林櫻園」の熱心な崇敬や彼を師と仰ぐ「肥後勤王党」と
その後の「神風連」一党がもっとも信仰した神社でもあります
さらにはこの出来事は朝廷にも知られるところとなり 有難い御尊崇を賜ることとなりました
しかし安土桃山時代 佐々成正によって熊本中の神社仏閣が焼失させられる出来事がありましたが
当宮も同じく焼失させられることとなります
その後 加藤清正公が国主として赴かれると 熊本城築城にあわせ神社仏閣の再建にご尽力を賜り
ここ「新開大神宮」も再建することができたと言われています
またその後 加藤清正公をはじめ 歴代藩主の直参を頂くこととなりましたが
その方々が当宮にお参りに来られる為に通った道
いわゆる熊本城から新開大神宮までのその参道は「伊勢道」と呼ばれ 現在でも近見など一部にその名前が点在しています
幕末・明治維新を迎える頃には日本の碩学であり肥後国学の祖と称される「林櫻園」の熱心な崇敬や彼を師と仰ぐ「肥後勤王党」と
その後の「神風連」一党がもっとも信仰した神社でもあります
三島由紀夫氏 「奔馬」ゆかりの地
昭和に入ると「新風連」調査研究のため三島由紀夫氏も参拝され
代表作「豊饒の海」を上梓 第二巻「奔馬」には神風連史話を記されています
代表作「豊饒の海」を上梓 第二巻「奔馬」には神風連史話を記されています